日本の国産ワインの振興に尽力され、ワインの醸造技術の第一人者として名高い麻井宇介先生が亡くなられました。
先生と私の関係は、酒の会で何度かお会いしてご挨拶を差し上げるぐらいだったんですが、昨年の十月に開かれた「酒文化の会」の十周年のパーティの席上でお話したのが最もきちんとお話した最初で最後の機会でした。
それも酒文化のパーティですから、フルートもソプラノも津軽三味線もあるという、酒を飲むだけでなく、良い音楽もあって食事もあって酒も有るちょっと贅沢な席を楽しむ会だったんですが、無粋にも演奏中ずっと先生をつかまえて、それも演奏者のすぐ前という一等席で、ずっとお話をさせていただいたという古来より続く「日本のおっさんの宴会パターン」そのままの過ごし方をさせていただいておりました。今となってみれば、先生にとって残り少ない時間を私の話の相手をしなければならないという責め苦を負わせたわけです。しかも、寛大にも別れ際に先生は著書までくださり、それをありがたくいただいて帰ってしまいました。
で、その議論というものがどういう内容だったかといいますと、先生は「ワインは文化の酒である」、対して「ビールは文明の酒である」、「日本酒も文明の酒である」、「ここに日本酒が現在抱えている欠陥がある」と仰っておられました。そこに疑問を感じており質問させていただいたわけです。
実をいうとこのお話させていただいた30分というものは私にとってものすごく勉強になった時間でして、その後の酒に対する浅かった私の考えを深めるきっかけとなった30分でした。
もちろん罰当たりな私はそんな体験をしながらまだ「先生の話は納得が行かない」などと話しておったんですから度し難いんですが。
先生の話は、「ワインはブドウ畑の良し悪しによりワインの出来が左右されるなど性格的に農業生産品の延長線上にある。その意味で、大量生産技術になじまないものがあり文化の酒といえる。それに対しビールは大麦の産地を遠く離れての工場立地も可能でありそのため大量生産の技術も生まれてきた、という点で工業製品としての性質が強い。つまり技術が主導しているという点で文明の酒といえる。」「日本酒も同様な性質を持っていることから文明の酒といえる。最近もてはやされている吟醸酒も、製品としての特質が米の精米歩合など技術的なものにかかっており、その点でやはり技術主導型の酒といえ、文明の酒の範疇を出ていないといえる。」「この文明の酒であるという点に日本酒の近年の停滞の原因があるのではなかろうか。」「水車で精米したほとんど精米していない飯米程度の黒い米を使って、伝統的な木の樽に仕込んでいた昔の日本酒から、精米歩合を高め、ホーロータンクに仕込み始めた時から日本酒の文明の酒としての歩みが始まり、結果として今日の退潮を招いたのではないか。」「つまりもう一度昔の日本酒の仕込み方に戻らないと、ワインのような文化の酒として脱皮できず、大資本の論理の競争に巻き込まれ、結果として将来生き残れないのではないか」
と、いうものでした。
私も、日本酒が大量生産を戦後業界全体として志向してきた結果、文明の酒という性格を帯びてきており、ここに日本酒の弱点があるという先生の意見は大いに賛成するものなんですが、いわゆる精米や仕込技術などの洗練や進歩に背を向けるべきだという点に関しては釈然としないものを感じました。
と、言うよりも、積極的に洗練進化していく、つまり造り方がどんどん変わっていく、新しい技術が開発されることにこそ日本民族の固有の個性と共通する日本酒の個性が感じられると思ってきました。
たとえば同じ米と麹を使って造る酒にもかかわらず、紹興酒と日本酒はまったく違うものに見えるはずです。大陸的おおらかさといいますか私どもから見れば非常に大雑把な仕込み方をして熟成による洗練を待つ、つまり良い酒になるかどうかは「神のみぞ知る」という紹興酒と、最初から手をかける日本酒の違い、ここに中国人と日本人の民族性の違いがあらわれているように感じます。
また、私どもは日本酒と同時に地ビールも造っています。そのビールの造り方と日本酒の造り方をみたとき欧米的思考方法と日本的思考方法というか民族性の違いを大きく感じます。ビールは糖化と醗酵が分かれているがゆえに非常に簡単な失敗し難い醸造方式をとるという点で実にシステム的に優れている、如何にも欧米人の思考方法そのものに感じます。対して、並行複醗酵という複雑怪奇な醸造方式をとり、醸造担当者の腕の見せ所がいっぱい有る、反対に言えばシステム的には非常に劣っているといえる日本酒と、比べてみたときその相違点に、近代文明をその合理的思考方法で築いてきた欧米人と、「匠」の世界を重視する日本人の考え方の違いを感じます。
つまり、酒というものは民族固有の性格からは逃れられないもので、麻井先生が欠点であると指摘された、どんどん進化していくという、この点にこそ、日本民族固有の酒としての日本酒の個性があるんじゃなかろうか。特に吟醸酒のように洗練と技術的変化の激しい酒こそ日本的メンタリティの象徴ではなかろうか、ここを無視してワインのようにただ造り方を変えないことに固執していくことは日本酒の個性を捨てることになるんじゃないか?ワインがヨーロッパの文化とともにあるように、日本酒が21世紀も生き残ろうとするとき、この良くも悪くも日本人の特質から生まれた日本文化の申し子のような日本酒がその日本的な考え方を変えるとしたら、それこそ生き残れないんじゃないか。
そのあたりの疑問を先生にぶつけさせていただいて、結果として先生の貴重なお時間を拝借してしまいました。ただ、前々回のメルマガの中で、ある中堅大手の品質的には水準を抜いて優れている特別本醸造を飲んで、これならビールを飲むのと変わらないと感じたとお話しましたが、まさにここにこそ先生が日本酒に対して感じておられた欠点があっ
たのではと思っています。
いつの機会か先生にお会いできましたら、そのあたりを聞いてみようと思っておりましたが不可能なこととなりました。
「やっと分ったか」と言われるか、それとも「まだまだその程度の理解では修行が足らん」と言われるか、聞きたかったんですが、残念です。
麻井宇介先生の生前の業績に敬意を表しますとともに、安らかに永眠されることをお祈り申し上げます。すいません。今回のメルマガは話が堅くて。しかし、現在の日本の酒業界を眺めたとき、先生に変わる方がいないということも事実です。残念でなりません。