前回話が長すぎて(実際、私は、あの話の長い「賀茂泉」の前垣社長にお前は話が長いなぁーと言われたことがあります。ところで、前垣社長は自分の話の長いことは分っておられるんでしょうか・・・? まぁ、あの前垣さんのことだから「それがどしたんなら」とニヤリと笑いながら広島弁で言われるでしょうが。 あぁ、また話が横に行ってしまった・・・)、とにかく、本題につくまでにあまりにかかりすぎて失礼しました。
で、本題の、何で仙台まで私が来たかの話ですが、講師の先生役を引き受けたんです。「センセイ」と呼ばれて喜ぶ人種にろくなんはいないと言いますが。一応、東北六県の青年清酒協議会の夏季ゼミナールの講師として呼んで頂いたため来たんです。青年清酒協議会と言うのは、酒造業界の若手経営者と後継者の集まりで、同じような会が中部とか東海とか全国に、勿論中国地方にもあって、奇しくも中国五県の夏季酒造セミナーも同じ日と次の日の二日をかけて広島プリンスホテルで開催されていました。
最初、会長を務められるあの青森の「田酒」の西田専務より直接お電話をいただいたとき、「これも宣伝になるだろう」ぐらいの気持ちで気楽に引き受けたんですが、よく聞いてみると7人ぐらいの講師が入れ替わり立ち代り話をする中国地方と違って、日本酒造組合の副会長によるいわば執行部報告のほかは私とあの「神亀」の小川原専務(!)の二人だけ。この私達二人の話を聞くためだけにあの広い東北六県から会員の蔵元が仙台に集まると聞いて、これは容易ならざるものを引き受けたことに気がつきました。しかもいただいた演題は「時代を切り拓いた酒蔵」。(時代に切り裂かれた酒蔵の間違いじゃなかろうか?)
小川原専務は良いですよ、日本酒と言うものはアルコールと糖を足して造るもんだとあの太平洋戦争の米不足の時の国税局の発明以降信じ込んでいた日本酒業界の中で一人税務署の迫害にもめげず純米酒を造り続けて、しかも日本で最初に純米酒だけの蔵にした先駆者としての苦労話をすればいいんですから。(すごい人がいるもんですよねぇ。)
わたしゃあ何を話せばいいんだろう。しかも聞くほうはあの東北の酒造業者の若手達。私達から見れば西の酒蔵と比べてはるかに先を走っている。会長の西田専務のとこの「田酒」にしたって、あの日本経済新聞土曜版一面の特集で有識者の推薦する酒のナンバーワンにあの「八海山」や「菊姫」「久保田」を抑えて堂々一位で名前ののる蔵ですから私どもとは位が違う。宮城といやぁ、あの塩釜の銘酒「浦霞」もある。
そのあたりを西田会長に電話で恐る恐る聞くと「いや、すごい蔵もあるんですが、どうしてもあまりに近いと聞くほうも虚心に聞けないんで地理的に遠くの蔵を選んだんですよ。だから気楽にやってください。」
お心遣いはありがたいけど、それって反対にプレッシャー掛かりますよ。
と、云うわけで実を言うと、当日の朝まで何を話すかうじうじと悩んでいました。で、私の最大の美点、「切羽詰れば選択肢がなくなって、必然的に優柔不断な平素と違って、決断が出来る」(我ながら言葉にするとかっこ良くないですね)で決断した結果は平凡な答でした。
「とにかくうちでやってることをみんな話そう」というものです。特に杜氏に高齢による引退を宣言されて、慌てた私が、新しい杜氏を探し始めるも島根県の堀江先生に「将来を考えているのか」と一喝されて、目が覚め、自分で造ることを決心し、自社の若い社員と共に造り始めた経験を中心に出来るだけオープンに話しました。本当はこの話で何を話したかったかと言うと、次のようなことです。
このメルマガを読んでらっしゃる方は折にふれて話しているのでご存知かもしれませんが、旭酒造のこれまでの恥多き歩みを見ていると「万事塞翁が馬」という言葉がぴったりするんですね。
たとえば、半径3キロに人口が300人弱しかいないようなそんなとんでもない山奥の過疎地に酒蔵があるからこそ、地元に市場が無く、全国に市場を求めて生き延びざるを得ず、灘伏見の大手メーカーの低価格攻勢にアップアップの地方市場の現在の惨状に身をおかなくて良かった。たとえば、前任者である父は自分でも予測しなかった急な病で引継ぎもせずに亡くなったんですが、そのお陰で三増酒中心の蔵から純米吟醸中心の蔵へ酒蔵のモデルチェンジが皮肉にもスムーズに出来た。たとえば、数年前に経営上の大失敗をやらかすんですが、そのお陰で酒蔵の体質強化が出来た。たとえば、地酒蔵としては後発だったがゆえに、先人の苦闘の上に開拓された地酒市場に、より効率的なやり方で参入できた。(ま、後出しじゃんけんをしたわけですね。先輩のご苦労された皆さん申し訳ありません。)
つまり、酒蔵はどんなにひどい情勢でも何とかなるもんですよね。いまさら、偉そうに話したって仕方ありませんものね。こんなことを話しました。だけどあがってたんでしょうね。最初にリクエストされた「遠心分離機」の話も「磨き二割三分」の話もみんな話し忘れていると言う体たらく。
だけど話しながら、自分でもおかしかったんですが、私は酒蔵と言うものが好きなんですよねぇ。普段、よく、「日本酒の業界全体の一番大きな問題は、昭和50年に全国で950万石(一石は一升瓶で百本分)売れていた酒が600万石を切る売上まで落ち込んでいる。それなのに、当時全国に三千社あった酒蔵が今でも二千社残っている。他の業界の感覚ならとっくに五百社程度に減っているはず。つまり業界内で激烈な淘汰が行われなかったわけで、ここにこそ酒造業界の問題点があり、日本酒が他酒類間の競争に負けた理由がある。だから、酒蔵が自然淘汰されていくのも自然なことで仕方ないんだ。」なんて言ってるにもかかわらず・・・・、です。
実際、最近、「酒屋」という雑誌に、この小売業受難の時代にいろんな地域でがんばっている小売酒屋さんへのエールを書きなさいと発行元のトータルネットワークの村上オーナーから指名されて、一年間連載しているんですが、この文章がどう考えても酒屋さんへのエールじゃなくて他の酒蔵への連帯のエール(古いなぁ・・・)になってるんです。
今回の話はまったくまとまらないんですが、とにかく仙台は美しい町ということと、私は酒蔵が好きと言う事と、今からもどんどん魅力的な新しい蔵がこの業界には生まれてきそうですから是非期待してください、ということの三点でこの話をしめたいと思います。