前回の蔵元日記でも触れましたが、フランスワインには産地呼称制度があります。ところが日本酒にはそういったものがありません。このあたりがワインびいきの方から見たとき、日本酒がワインに比べて原料に由来する品質に対してこだわりが足りないように見えるようで「ワインと比べて日本酒は・・・・」ということになるようです。

ただ、これは原料の特性を無視した話であることも確かです。つまり葡萄は摘み取ったあと品質を損なわず長距離を移動させることは出来ないが、米はそれが出来るという点です。米にとって、たとえば山口県と兵庫県の産地間の300km弱の移動による品質低下に対するリスクは、葡萄で言えばせいぜい100mはなれた隣の畑から自分のシャトーに持ってくる程度の負担ということです。

ですから、清酒は原料にこだわりを持てば持つほど地元の米から離れる可能性があるということです。もし、ボルドーで格付け二級だったムートン・ロートシルトを完璧を目指す情熱と妥協を許さない姿勢で格付け一級に押し上げた、私の敬愛するあのフィリップ男爵が、100mはなれた隣の葡萄畑のほうが葡萄の品質が優れているとわかったとき、それも栽培技術じゃ無しに畑そのものの地形的なもの、つまり斜面の角度や日当たりの関係でどうしようもないとわかったとき、それでも自社の畑の葡萄に固執しますかね。

きっと、何とかしてその隣の畑のぶどうを手に入れようとすると思います。伝説的になった彼の美しい女性に対する情熱と同じように(つまり女癖の悪さ? うらやましい。 こらっ!!)

つまり、清酒とワインを同列の基準で論じるのは無理があるということですね。

似たような話で、以前故麻井宇介先生(注)に面白い話を聞いたことがあります。

中南米のワインを日本に輸入すべく同地に赴いた先生は、あまりの生産システムの荒っぽさ(と巨大さ)に目をむいたそうです。

摘果された葡萄はダンプカーに積まれて炎天下シートもかけず数10km移動して、まるで屋内プールのようなコンクリート製の醗酵槽に放り込まれる。当然ダンプカーの上では下積みになった葡萄は腐り始めるわけです。

微生物管理という概念そのものが無かったんでしょうね。このあたりを理解させることから初めて、かなり苦労されたようです。もっとも、ダンプカーの荷台の洗浄を徹底させて、床にビニールシートを敷き詰め、上にもほろをかけたら劇的に変化したそうですが。

きっと、一番苦労されたのは、微生物管理という概念をかの国の人にわかってもらうことに苦労されたんだろうなぁと思いながら聞いていました。

そういう先人の苦労もあって今の新世界産のワインが花開いたんでしょうね。

(注)麻井宇介先生;ワインの技術者として名高く国産ワイン発展の師として慕われた。また、酒文化論の論者としても名高い方でした。詳しくは2002年6月18日の蔵元日記をご覧ください。