前回の蔵元日記(ひよこ日誌)を読んでいただいた方にはお分かりかと思いますが、この6月から息子が酒蔵に帰ってきました。現在修行中です。
実は大変なプレッシャーを感じています。
帰る一週間前、浮かぬ顔をしている私に妻が「子供が帰ることがうれしくないんですか」と聞きました。自分でもびっくりしたことに半分図星だったんです。
子が帰ることにうれしくない親はおりませんから、半分うれしい、しかし半分怖い。
こういうことです。私は昭和59年に先代社長である父を亡くして酒蔵を継ぎました。そのときの旭酒造はことさら品質にこだわらず、それより値引きや熱心なセールス活動に力を入れる酒蔵でした。とにかく品質より売ることに熱心な、当時の普通の酒蔵でした。それが現在、買っていただける・お客様に選んでいただける品質の酒であることに最も重きを置く酒蔵になっています。
この「販売が主体の蔵」から「つくりが主体の蔵」への転換こそ旭酒造が今日まで生き延びることができた大きな要因と自負しています。
こんな大きな酒蔵の転換ができた裏には、当時の無茶苦茶な旭酒造の販売不振(3~4年続けて前年比85%でした)もありましたが、私が酒蔵の実際の経営を何も知らなかったことと経営上の強力なサポートをしてくれる人がいなかったことが大きいと思います。
父の葬儀の晩に引き受けた社長です。しかもその時点まで父と折り合いが悪く酒蔵の仕事から離れていましたから周囲の目は冷たい。しかも、私は父の前妻の子でしたから酒蔵を離れて育っておりまして、さらにみんな他人行儀。 と言うか、人によっては何時失敗するか見ている。だから引継ぎは無しです。酒蔵の永続が必ずしも皆の利害の一致するものではなかったということです。
ところがこれは裏を返すと、教えてはくれないけど変な影響やマインド・コントロールも無いということです。
酒蔵の経営を助けてくれる人もいませんでした。しかし、酒蔵のコンセプトを180度転換させるのに、それは危ないから止めたほうが良いと善意で助言してくれる人も社内にはいませんでした。その意味では孤独でしたけど孤独だからやりたいように出来たと思います。
とにかく実情と経過はどうあれ、酒蔵の「コンセプト」も商品としての「酒」も何より対象とする「お客様」も全て父の代と今の旭酒造は変わっています。これが社会に受け入れられたから生き残っていると思います。
こんな経験をしてきましたから、酒蔵が永続するためには常に変化することが大事と思っています。息子にも、「まず全てを受け入れて丸呑みしてみろ」「しかる後に分析して今の旭酒造の強み・弱みを洗い出せ」「今の旭酒造の持っている弱みや欠点は否定し、しかる後に自分のやり方でやれ」「先代と同じ事をやれば絶対先代(つまり私のことです)の方がうまいから」と話しています。
だけどこれは理性が話していることです。現実に自分の手法や大事にしてきたものが息子に否定されたとき果たして耐えられるか。そのときになったら、今はこんな立派なことを話していても一生懸命足を引っ張るんじゃなかろうか。
また、息子が情に流されて否定できないようだったらどうしよう。それはもっと怖い。果たして息子を育て上げることができるだろうか。自分にそれだけの力とか度量があるだろうか。
それに、何しろ私は意地が悪いし。ある人に先日言われました。「それは社長の意地が悪いから・・・・」 そうです。私は意地が悪いのと執念深いのは自信があるんです。息子も大変だ。こんな親父と付き合うんじゃ。あぁ、心配だ。
人も企業も「味方」や「調子の良い時」というのは成長させない。「敵」や「ピンチのとき」こそ成長させてくれる。社長が父親というか先代の手法を無批判に受け入れているようじゃ酒蔵は危ないということです。これ、簡単に書いてますけど・・・・・・。あぁ、
しんど。
(父の愛情)
今回のメルマガは重たいんで、重たいついでにもう一つ。私と生前の父の折り合いが悪かった背景には父の私に対する愛情があったと思います。
私のことが心配であったがゆえに、自分の思い通りにならない私に腹が立ったんだろうと思います。しかも今になって思えば少し父の中に私に対する負い目があって、それがよけいこじらせたんだと思います。
男女の仲も複雑怪奇ですが父と子の間も複雑です。