「獺祭は山口の地酒か?」という地酒ファン同士の議論がweb上で白熱しているのを見かけたことがあります。確かに山田錦という品種とその品質にこだわるあまり、使用する酒米も一部の契約栽培の県内農家分を除いて、過半数は兵庫県産です。酒の売り先も首都圏が中心で、地元はあまり多くありません。地元岩国市の売り上げより金額で言えばニューヨークのほうが大きいんですから、よく言われる「地元の米で造り地元に販売する・地元にこだわる」が地酒の条件とすれば、まったく条件に当てはまらない酒蔵です。

それでも最近「山口なんだなぁ」と実感することが多いんです。どうも酒というものの捉え方とか酒蔵そのものの成り立ちが、山口的思考から抜けられないというか、山口的心情が濃厚に流れている自分を感じるからです。

私どもの酒蔵は半径5キロ以内にせいぜい300人程度しか人口のいない山口県の山奥の集落にへばりつくようにあります。地元に市場がありませんから首都圏を主力市場とするしか生き残るすべがありませんでした。お陰で、純米でなおかつ吟醸しか造らない国内でも稀有な酒蔵になりました。また、酒米の産地でもありませんし酒米にこだわる旭酒造は県の農業団体にはずいぶん邪魔者扱いにされましたので、地元の米に固執することなく最高の山田錦を日本中の産地から買うようになりました。約10年前に杜氏に「来年は来ない」とFA宣言をされてしまい、若手社員による酒造りを選択しました。良くも悪くもアル添の酒を知らず純米吟醸しか知らない若い彼らにより酒質面での新境地を開いてきました。

また、旭酒造はお客様に「あぁ、美味しい」と言って頂ける結果を大切にするため、手法にこだわりません。たとえば、「昔の杜氏さんは偉かった」と「波返しの技法」(注1)を復活させることもしません。米を冷やさなければならないとしたら、一番効果的な方法をとろうとします。米を磨くことにより私どもの望む酒質が得やすくなると思えば極限まで磨くことを選択します。

同じように、旭酒造は酒というものを「日本民族の精神性が生み出した民族の酒」とは思っていますが、業界の一部で言われているように「伝統的なものに回帰しなければならない」「伝統芸能でなければならない」とは思っていません。なるべきとも思っていません。

これらの事は、それを信じている方には許しがたいことかもしれませんが、旭酒造にとって与えられた要因の中で自分の信じる酒を造るためには当たり前の選択でした。最高の結果を出すために一般のやり方と違うことをすることも恐れませんでした。

そうすると批判されることも多くて、私は打たれ弱いものですから面と向かって非難されるとヨロヨロっとなるんですが、何とか踏みとどまれてここまで来たのは山口県の歴史とそれを造ってきた先人たちの足跡が私に与えてくれたものが大きいんじゃないかと思います。

たとえば、山口県の旧藩主である毛利家は関が原の戦いで負けて中国地方全土に広がっていた領地から防長二州に押し込められます。その結果、過密状態に陥った毛利藩の人材が徳川幕府時代の三百年間に摩擦と熟成と発酵を繰り返すことにより、山口県独自の精神風土(注2)を造ります。その人材を防長二州34万石の収入で食わせることが出来なくて、塩田開発や商業開発に注力します。それにより幕末時には実質百万石を越えるといわれる経済力を持つに至り、それが明治維新を経済面から支えることになります。マイナス要因の中で仕方のない選択が結果として明治維新の原動力となりました。

また、四境戦争と呼ばれる戦争が幕末にありました。一般的には第二次長州征伐と呼ばれている戦いです。この戦争で長州藩ははるかに勝る兵力を擁する幕府側連合軍を破り、明治維新のきっかけを作ります。ただ、これには勝つことが当たり前の理由がありました。

太平の江戸時代をすごして、戦国時代の戦い方を忘れ、様式化された武家の作法にのっとって戦おうとする幕府側に対し、奇兵隊などに代表されるように勝つことに目的を単純化させた長州藩の軍隊が対戦し、当然の帰結として勝ったということです。(注3) 

日本酒の業界で、新しかったり、その時点で他と違う手法を選択することは抵抗の多いことです。波風のきついことも多かったんですが、常にこの山口県の歩いてきた歴史は私を励ましてくれました。物質的な面やワイン的な考え方(注4)で言えば、確かに地酒のスタイルに当てはまらないかもしれませんが、こんなことを考えると、「獺祭は山口の酒だなぁ」「山口から離れられないなぁ」と思います。

(蛇足)

わたしは、山口県人の類型としてよく言われる、「吉田松陰先生」とその名を呼ぶときは直立不動で「先生」をつけることもしませんし、語尾に「あります」(注5)をつけることもしませんが、たとえば、高杉晋作の享年である27歳をこえて28歳の誕生日を迎えたとき、「ワシャ、何で、この年になって、この程度でしかないんじゃろうか・・・・・」と、27歳にしてこの世を去った晋作と自分の出来の違いになんともいえない情けなさを感じたものです。(当たり前ですよねぇ。この・・・・、阿呆!!!!! 一緒にすんな。よく自分の程度を考えてみろ。と、言うことですが・・・。しかし、他人からすれば滑稽でも本人にとっては大問題でした)

(注1)蒸米を冷ますときに固めてはひろげることを繰り返すと冷えやすいという冷凍機などない時代に杜氏たちの中で経験的に行われてきた技法。旭酒造でも台風で停電し冷凍機が動かなかった時に若いメンバーが本能的にやっていたのでおかしかったんですが、日頃は必要性を認めません。

(注2)司馬遼太郎風に言うと書生くさいと言うんでしょうか、ものすごく理屈っぽい。その上、その理屈に行動が規定されやすい。一番分かりやすいのが酒の席です。おそらく維新前後の京都のお茶屋遊びでも、長州出身者は酒席で明るく騒ぐ新撰組や他藩の藩士と比べて芸者衆にはもてなかったでしょうねぇ。それが維新の原動力だったりして。この件、決して私がもてない事の言い訳を自己正当化しているわけではありません。(立派にしているか・・? だけど体験的に言うと、不思議に東北の方が明るいねぇ。飲むときは楽しくと言う暗黙の了解があるんじゃないかなぁ)

(注3)高杉晋作が創設したことで有名な奇兵隊も、幕府側からは「定法どおりの戦をしない」と嫌われ恐れられたようです。ただ、考えてみれば戦国時代は当たり前のことで、そのあたり早く気づいて改革した会津藩や長岡藩と当たると、史実でご存知のように、大変な苦戦をしたようです。(注の注)

(注4)ワインは長距離移動できない葡萄を原料とする関係上、製造場のある地域の気候風土に規定されることが多く、その意味で生産者自身が「ワインは農産物だ」という言い方を良くします。「ワインはすばらしい。それと比べて清酒は」と、近年、ワインと同じ価値基準で清酒も考えようという議論が一部にありますが、清酒の成り立ちを考えたらどんなもんでしょう。何回かこの蔵元日記でもお話しているように、もっと日本民族が置かれてきた状況とか、それから生まれた民族としての個性の面から清酒は考えられるべきではないでしょうか。もっと酒というものは多元的な価値観で考えるべきものと思います。

(注5)山県有朋などの長州閥が陸軍を支配したため山口県の方言が陸軍用語になったといわれています。山県有朋はどちらかというと理論や夢を追うより実際面の結果や実益を重んじる人で毀誉褒貶の激しい人物ですが、その影響下に育ったはずの日本陸軍がなぜあんなに実益も勝ち目もない太平洋戦争に無謀にも突入して、あれだけの人命を無為に失くしたのか残念に思います。

(注の注)秀吉の時代に日本軍と戦い捕虜となった朝鮮の武官が故国への報告書の中で、日本軍の分析をしています。「日本人は容貌・体力は我々にはるかに劣る、兵法も何も知らない」と、朝鮮の敗北が理解できない旨記しています。この文書を紹介した故山本七平さんによると、試験秀才と現場たたき上げが戦った当然の帰結と結論付けています。