自民党政権で主要閣僚を歴任した政治家が先日亡くなりました。発言は硬派で波風の立つことも多かったんですが、真剣に国の行く末を考えていると思えた数少ない政治家でした。だからこそ、酒の上の武勇伝が洩れ聞こえてくると眉をひそめたものです。最後にはおそらく飲酒が原因ではと思える大失態をやらかして辞任に追い込まれました。嫌いな政治家ではなかったがためにその辞任のタイミングミスも残念なものでした。
死因は色々言われているようですが、結局長年の飲酒が原因という見方が大勢のようです。酒ってこんな有為の人の人生も奪ってしまうことがあるんです。旭酒造は「酒ってたくさん飲むから偉いんじゃない。楽しむ酒をほどほどに飲んでほしい」と言い続けてきました。それはこんな経験をずいぶんしてきたからです。
父の死後(注)、旭酒造の社長になった時代はまだ一級・二級のある時代でした。その二級酒が突然売れなくなる店があるんです。原因を調べてみるとほとんどは二級の小瓶が売れなくなっていました。
実は二級の小瓶を買うお客さんというのは酒量の多い方、つまり自分でコントロールできにくい方が多かったんです。大体日本酒というよりアルコールの魅力で飲むわけですから、銘柄は酒屋さんの言うがまま。ですから酒蔵にとってもある意味都合のいいお客さんです。一回の食事に300mlか720mlを一本。300mlの間はまだいいんですが720mllになるとほとんどは一年以内に売り上げがとまります。
「なぜ、この店の売り上げが落ちたのか?」と聞く私に「飲んでくれてるお客さんが入院した」とかひどいのは「亡くなった」と答えるセールス。それに対しただ「売れなくなって残念」としか感じない社長の私。なんとも情けない姿でした。
こんな経験がいくつもいくつも重なって、販売競争に血道を上げて売り上げを追いかける酒蔵から、「とにかく量じゃない」「たくさん売れなくてもいいから、お客様の楽しい人生のお手伝いをする酒」「量より質の酒を」と現在の純米大吟醸しか造らない蔵に変わって行ったんです。
地元中心から東京中心の販売にシフトしたこともあいまって、「地元を無視するのか。俺たちの売る酒や飲む酒は造らないのか」と不満を持つ地元の酒屋さんやお客さんと軋轢を起こしながらも無理やり転換してきました。その意味では楽な道ではありませんでした。それでも「お客様の健康」つまり「幸せ」と矛盾する酒蔵であり続けることは我慢できないことでした。
しかし、しかし、実はもう一つ違う矛盾を抱えることになりました。つまり量より質の転換を目指して酒を磨き上げてきたわけですが、磨き上げれば磨き上げるほど、突き詰めれば突き詰めるほど・・・・・、言われるんです。
「獺祭って、香りもあるし飲み始めに飲むのに最適と思うんだけど、それだけじゃなくてだらだらといつまでも飲めちゃうんだよね」「(量を追いかけるはずの)普通酒はたくさん飲めないけど、(量を追わないはずの)獺祭はいくらでも飲めちゃう」「下手に食中酒を標榜する酒よりいつまでも飲める」と私の狙いと反対のことを言われるお客様が多いんです。私も皮肉なことに「それはあるなぁ」と感じています。
旭酒造では、口に含んだときガツンとくるアタックよりも、最初はすっと入ってその後で魅せるバランスと余韻を大事にしています。しかし、理想の酒にむいて努力すればするほど、どこまでも飲める酒になっていきます。この矛盾、どうしたらいいんでしょう。
【注というか番外編/親子の相克】
実は61歳で死んだ父の死もアルコールによる緩慢な自殺のようなものでした。医者の言うことをまったく聞かず、死後、父の座っていた座の下から酒の空き瓶が何本も!!まぁ、考えてみればわかるような。気持ちがわかるだけに息子としては忸怩たる思いです。
太平洋戦争後復員して酒蔵に戻った父は経済復興期・高度成長期と社会の追い風もあって順調に酒蔵を伸ばしてきました。しかし、第一次オイルショックのころから日本酒の市場が縮み始めると、それまでの「セールスがただ頑張ればいい」というビジネスモデルからさらに価格競争の厳しい「縮む市場の中での他社蹴落とし競争」の状況になりました。そんな中で、家庭的にも必ずしも幸せではありませんでした。
長男が酒蔵を出てしまったんですから。私に言わせれば「首になったから酒蔵を出た」と思っていますが、父にしてみたら「(首にした覚えはない)、何かわからないけど出て行った。(あいつは敵前逃亡だ)」と周囲の人に話していました。しかもちょうどそのころから販売競争が熾烈になり、酒は思うように売れない晩年でした。
高度成長期のいくらでも酒の売れる時代に経営者として過半の時間を過ごした父にとってみれば、自分の人生設計があっちでもこっちでも崩れてしまい、酒でも飲まなければやってられなかったのかもしれません。