皆様にご迷惑をかけました、撹拌不足による回収からそろそろ二月が過ぎ、その後の経過説明が全くないので、「こいつ仕事してんのかな?」とお思いの方も多いと思います。当たり前のことですが、私にとって大きな衝撃で、それとともに、「この失敗を獺祭の改革の第一歩にしないと、これだけの失敗をした蔵元に温かく叱咤激励いただいた皆様に申し訳ない」と、思いを定め、原因を突き詰める毎日でした。

その間に既に決まっていたニューヨークやパリの獺祭の会など華やかな催しもこなしながら、心の中は「なぜこんな事故を起こした」「これは旭酒造の制度的欠陥が惹起した事件じゃないか」「という事はお前の馬鹿さ加減が招いたことだろう」と自分を苛む毎日でもありました。

最終的に考え至った、今回の事件を引き起こした根本原因は、「人間は不完全でミスをするということを認めない組織だった」という事です。

これはこういうことです。旭酒造が社員と最初に酒を造り始めた1999年なんて社員数4人でした。その頃のことを暴露してしまいますと、毎日何をしでかすかわからない。当たり前です、素人ばかりが集まって酒造りを始めたんですから。そんなスタッフ達と共に、その頃はとにかく酒を造ることだけ、酒に仕上げるだけで精一杯だった思い出があります。

でも、そんな酒造りがどういうわけか市場に受け入れられ、最初の年がわずか百石を少し超す程度の製造量だったと思いますが、いつの間にか一万石を超え、三万石を超え、現在に至ることになります。当然社員も最初の4人から製造スタッフだけで130人を超す所帯になりました。

問題は、この成長の過程で、組織の在り方を変えなければいけなかったのに、それをしていなかったという事です。

何を織り込むべきなのに織り込まなかったかというと、「人間はミスをする」という事です。実感として言えば、50人位までの組織は、みんなを信じ「みんなで努力しよう」で行けたのです。だから、私も皆の力を引き出すことに専心していれば済んだのです。その頃であれば、私にはどこの部署の誰が弱いか分かっていましたからそこを気を付けて見ていればよくて、あとは若い社員たちのやる気と善意を信じていれば良かったからです。

ところが百人を超えると当然のことですが、目が届かなくなります。反面、各スタッフの技術レベルの向上も進んできます。各部署に任す必要が出てきます。ここで今までの「人間は努力すれば限界を突破できる」という考え方の欠陥が出てきます。

人の中には様々な人がいます。初期のメンバーのように。ただ「良い酒を自分達の手で造ろう」「それをお客様の手元に届けよう」という単純な考えだけでは染まらない人たちが出てきます。これは悪い意味だけで言ってるのではありません。良い意味でも様々なテクニックがあり、マーケティング理論があり、いろんな見方があるという事です。

これは各論は正しいのですが、成長期の企業にとっては組織を弱体化させていく第一歩のように思われます。

話を本筋に戻しますと、「人間はミスをする」「人間はサボる」ことは人間本来に与えられた性質です。このことのない人間なんていません。自分を見ても私なんてサボりとミスの帝王です。

だからと言って、監視しろという話ではないと思います。あの事件の後、監視カメラを増強しようという意見がありました。私はその意見に与しません。人間はミスをするしサボるしズルをする、からこそ、それを起きなくさせる体制、そしてミスやズルの結果、問題が起こったとしても、それをすぐにリカバリーできる製造システムが大事と思い至りました。

例えば旅客機がニューヨークの空港を飛び立って、地上作業員か操縦士か誰かのミスで故障が起こったとしても、とにかく羽田に着けばいいわけです。もっと言えば。途中の空港に不時着できる。極端には、実際にありましたがハドソン川に不時着水する(死者0)でも、墜落するよりは+いいわけです。

マスコミには叩かれるでしょうし、国交省には怒られるかもしれませんが、いくら怒られても死者が出るよりいい。こんな考え方が旭酒造の製造システムの中に組み込まれていなかったのです。

言い訳をしますと、最初のころはあったのです。みんなの技術レベルが低いがゆえに、何とか美味しい酒にする、という共通意志もありましたし、その方向で技術レベルは低いながらもまとまっていました。

実は純米大吟醸も山田錦しか使わない酒造りもそこから始まっています。こういう言い方をすると日々努力しているうちのスタッフに可哀想かもしれませんが、山田錦を使った純米大吟醸ならば、そしてそれだけしか造らなければ、技術のバリエーションもいりませんし、良い酒を造る最低条件が担保されるからです。

ところが、経験と共に技術レベルが上がってきます。酒造りも上手になってきます。そうした時、当初のこの「どうなっても安全に着地させる」という概念が忘れ去られてしまっていたのです。細かな技術論が酒蔵の中に横行していました。その中で加水後の攪拌の確認のような基本中の基本は「きっとやってくれているだろう」と毎日の「高級?」な細部の努力の前に隠れてしまいました。

さらに言うと、攪拌ミスのような意図的なものではありませんが、この追求の中で製造の抱えるもう一つの問題点も見えてきました。

同じ山田錦といえども毎年の性質は産地の気象条件等により変化します。当然対処する技法を変えなければいけません。結果として酒質に影響する問題が起こっているにもかかわらず、小手先の対応で終始しているような状態になっていました。それは、製造数量を確保する、という美名のもとに正当化されていたのです。

この後どうするかという事はあまりに長くなりすぎますので次回配信(おそらく明後日)とさせていただきます。