獺祭が大事にする「手間」という概念

手間- Tema -

獺祭が
大事にする
「手間」
という概念

獺祭は「手間」という言葉を大事にします。
「手間」という言葉は、近代から現代の合理化機械化そして世界的規模で進められた優勝劣敗競争社会の中で、一段劣っていたり、邪魔な概念のようにとらえられています。
しかし、私たちはそのような考え方と一線を画します。

今から百数十年前、江戸時代末期の日本の人口は3400万人でした。これは山の多い小さな島国という日本の地形を考えるとき信じられない人口数です。この時点ではまだ機械文明も日本では始まっていなかったのにも関わらず、この多さなのです。

この大きな人口数が維持できた理由の一つとして、日本の特徴的な農業形態があると思われます。当時世界中で一般的だった粗放型米作りと違い、日本では超緻密米作りとでもいうべき技術が発展したのです。これにより、面積当たりの収量を限界まで大きくした米の収穫は、この3400万人の人口を養い、農村の生産現場においてはこの栽培のための労働力を必要としたのです。つまり多くの人手とその手間が必要だったのです。

こういう生産形態が発達したため、通常邪魔者として排除されるべき農家の次男三男も農村の一員であることを必要とされたのです。つまり、「手間」を追求することにより私たち日本人は、結果として大きな内戦もない日本を300年間にわたって維持できたのです。当時の日本人にとって収穫を巡って他者と争うぐらいなら、「手間」をかけた米作りを追求する結果生まれる収穫増を期待するほうが十分に合理的なことでした。

日本に生まれた「民族の酒」として獺祭にも「手間」の概念は脈々と流れています。製造数量としてみたとき日本で10位にも入らないのに、製造スタッフの数だけは数ある他の大メーカーを倍以上のスコアで引き離して、日本一の人数であることもその証左です。

そして、そのスタッフたちはただ「手造り神話」の中にいるのではないのです、彼らの技術は徹底的にデータ化された現代の検証技術の上に動いているのです。私たちは「手間」という概念の持つ「進歩を無視しがち」なマイナス面にも敏感だからです。と、いうよりも、「少しでも美味しい獺祭」をお客様に届けるためにこそ、「手間」があるからです。ただ酒蔵の構成員が仲良く仕事をするために「手間」があるのではないのです。

「獺祭の手間」は
こういう考え方の上に出来上がっているのです。